日常

暇な時に書くエッセイ

気持ちを強く持って

先日闘病の末に母が亡くなった。

1年5ヶ月の癌との闘病生活だった。

相当な痛みや苦しさだったと思うけど、全然言葉に出さなかったと看護師さんから聞いた。

気持ちの強い母だった。

少し悲しい内容になると思うので、苦手な方は読まないでください。

 

 

先日マンションの契約中に父と妹からラインと電話があった。

契約書の説明等を中断してもらい、父に電話をかけた。母の様態が悪くなっているらしく、家に帰ってこれないかという内容だった。

しかし、契約書の説明を聞いてる途中だったので、すぐには帰られず、あと1時間後くらいに家に向けて出発すると伝えた。

すると母が私と話したいとのことで、電話に代わってくれた。

「〇〇〇か?ママ元気やで、元気やで、心配せんといてな。〇〇〇ちゃんにも大丈夫やでって伝えといてな」と話してくれた。

母の声が少しずつ母方の祖母の声に似ていってると以前から思っていたが、その時の声は祖母の声と同じに聞こえた。

話す体力も残っていないような中、頑張って話してくれているのがわかった。

同時にもう厳しいんだろうなと感じた。

自分は相槌を打つことと、わかったとだけしか答えられなかった。そっけなかったかもしれないが、心配させたくないんだろうなと思い、その時はそれしか言えなかった。

そして涙が止まらなかった。

 

電話を切った後、契約書の説明に戻ったが、その最中も涙が止まらなかった。もちろん子供みたいに泣きはしないが、無表情で我慢してても涙は止まらず、足早に説明してもらってサインして、その後のリノベの打ち合わせは無しにしてもらって帰った。

家に着くのは17時くらいの予定だったが、16時半くらいに救急車で母は病院へ運ばれることに。病院へ行くと面会は出来ないので、結局その日は実家へ帰らなかった。

 

次の日のお昼頃、母の様態がさらに悪化し、もう厳しいらしく、病院へ向かった。

病院に着いたが、既に母の心肺は停止していた。

死因ではないが、母は終末期にコロナウイルスにも感染していたようで、母と一緒に暮らしている父と、昨日家に帰ってきていた妹とその他親族が数名、濃厚接触者となり、防護服を着て母との最後の面会となった。

 

コロナウイルス感染者が亡くなった場合、通夜は出来ず、翌日に火葬をしなければならないそうで、気持ちの整理もできないままに、翌日に火葬となった。

 

基本的に濃厚接触者は動けないので、病院から火葬場への遺体の搬送の立ち会い、火葬前の最後の見送りは自分一人だけしか出来なかった。

 

花束と手紙を棺の上に起き、最後のお別れをした。

 

母を亡くすってこんなに寂しいんですね。

昨日から気持ちの整理が出来てきたけど、夜眠る前に母のことを考えてしまい、悲しくなってしまいます。

 

また、私は家族に対して割と冷たい態度をとってきました。一人暮らしの時は一年に一度も家に帰らなかったり、恋人の話をしなかったり。家族旅行も参加しなかった。

両親は高卒、専門学校卒ということもあってか、特に私が大学生くらいから考え方や価値観の違い、普段の暮らしの中で両親に対して素直に良いと思えない場面が増えていきました。

私たちの世代は比較的苦労した世代だと思います。結果的に親を頼らない人間に成長することに繋がりましたが、今思えばもう少し甘えてもよかったかもな、と思っています。

そうしていれば、最後に母と通話した時の言葉も、きっと違った内容になっていたのかなって。

 

 

骨壷を受け取ってから、寂しさもマシになった気がします。

 

母は気持ちの強い人だった。

母の強い気持ちを見習い、強く生きていきたいと思う。